芥川賞作家・今村夏子さん原作の映画『こちらあみ子』を語る会を9/11(土)に行いました。
思い出せる範囲ではありますがレポを書きました。ご笑覧いただけたら幸いです。
ネタバレありで内容を知っている前提で書いてますが、ご存じない方のために原作のあらすじだけ付しておきます。(ちくま文庫より)
「あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。」
さて、語る会当日、私含めて参加人数7名でスタート予定でしたが、開始直前に1名増え、開催中にもう1名増えて、結局参加人数は9名になりました。ありがたいことです。
参加者は原作を読まれてる方がほとんどで、原作と映画の違いについての言及も多かったです。特にラストシーンは映画オリジナルの描写で、ここは割と賛否が分かれました。説明的で物語をわかりやすくしすぎているのではないか?という批判がある一方で、原作そのものの反映というよりは監督の一つの視点や解釈が色濃くが出ているシーンではないかという指摘などがありました。
箇条書きになりますが参加者の感想は以下のような感じです。
・小説でえぐいなと感じていたシーンが映画では青葉市子さんの音楽によって緩和されていて良かった。
・監督の森井さんは、同じ原作者の映画『星の子』の演出に関わっていて、映画の空気感を見ると2つの作品は地続きになっている印象だった。
・あみ子のというよりは、一般的な子どもの頃の時間感覚をよく表現している映画に感じられた。
・悪人がいるわけではないのに他者からの救いがないのが辛かったが、坊主頭くんがいてくれたのが救いであり、深い感慨を覚えた。
・自分の子どもの頃のことを思い出す映画だった。
・家族でも人は変わるのだと思った。
・あみ子は奈良美智さんが描く女の子に似ている。
・良い意味であみ子は圏外の人。
・映像になって見せられることにインパクトがある。映画全体としてはイマイチだったが、中学生になったあみ子の制服の似合わなさが良かった。襟が曲がっているのもあみ子らしい。
参加者の感想の後、フリートトークで色々話が出ましたが、その中で私が気になった点をいくつか書きます。
まずあみ子の役を演じた子がすごいというのは全員一致していたと思います。小説を読了済みの人はみんなそのままの「あみ子」だったと口々に言っていました。どうやって見つけたり選んだりしたのだろうか?と盛り上がりました。
他にはいくつかの捉え方ができるトピックについて。
ラストのあみ子が舟に手を振るシーンの解釈。私はあれは「さよなら」の意味だと捉えていたんですが、あれは「またね」にも捉えられるという指摘があってなるほどと思いました。
それからベランダの鳥のシーンでのあみ子のお兄ちゃんの行為の意味について。鳥をベランダから追い出し、卵がある巣ごと外に投げるのは一見暴力的ですが、全てを終わらせることであみ子が後腐れなく家を出ておばあちゃんの家に行けるという考えがあったのかもしれないという指摘がありました。一方で、特に考えての行為ではなくあみ子に対する苛立ちのような気持ちで突発的に行ったのではないか?という指摘もありました。どちらも「ありそう」で腑に落ちます。
私は、お兄ちゃんの行為というより鳥の解釈になりますが、あの鳥はあみ子の(存在の)投影として読めるんじゃないかなと思いました。他者にとってある意味不気味であり社会(家)の隅や外へと追いやられてしまうような存在。あみ子は学校でいじめれてもそれがいじめだと分からないような節がありますけど、あの鳥の出来事があって初めて、他者から見たあみ子がどういう存在なのかに、あみ子自身の内に興味が湧いた瞬間ではないかと思います。だから鳥の次の場面に坊主頭くんとのやりとりがあり、あみ子は自分のどこが気持ち悪いのかを教えてほしいと尋ねる。他者にとって自分の存在はどんなものなのかを知ろうとするきっかけになる出来事だったんじゃないかと、私はそう思いました。
語る会は大体以上のような感じだったのですが、
語る会の翌日に、映画を鑑賞された常連さんと、語る会に参加された方がそれぞれ来店されて、また『こちらあみ子』の話をしました。このお二人は別々で来られて話をしたんですが、どちらの会話でも同じトピックが出たのが個人的に興味深かったのでそれについて少し書いておきます。
それは小説でも映画でもラストシーンにあみ子によって発せられるセリフ「大丈夫」の解釈ついてです。
まず小説での(大人のあみ子の)「大丈夫」は、近所の女の子があみ子の方にやってこようとして来ると同時におばあちゃんからも呼ばれている場面で、地の文として出てきます。でも女の子があみ子のところまで辿り着くにはまだ時間がかかりそうなので、先におばあちゃんの方に行って対応しても「大丈夫」だとあみ子が思って、物語が締めくくられます。
私が気になったのはここでの時間感覚みたいなもので、ここでのあみ子は一般的な大人のような時間的対応をしているなと思いました。私自身の子どもの頃がそうであり、あみ子もそうだったと思うのですが、目の前のこと(出来事)に一生懸命で、かつてのあみ子ならこの場面のように余裕を持った同時並行的な対応は行えなかったのではないかと思いました。
そういう意味では子どもから大人への成長と捉えられるかもしれません。
次に映画での「大丈夫」は、上のような成長とは少し異なるような気がします。どちらかというと字義通りの意味合いかなと思います。劇中で歌われる「お化けなんてないさ」やラストシーンの舟はあみ子が持ってる世界を象徴するものだと私は解釈しましたが、そういう世界との別れが描かれるシーンで「大丈夫」というセリフが発せられる。水が冷たいぞと近所のおじさんから声をかけられる最中、間髪入れずに「大丈夫!」と答えるのはあみ子らしいというか、あみ子らしさを失っていない印象で、何かを失ったのかもしれないけどでも(字義通り)「大丈夫」と思えるシーンで、希望的に捉えていいのではないかと私は思いました。
あと一つどちらかといえば批判的な捉え方になりますが、あみ子は本当に大丈夫なのか?という視点からの感想をもらいました。たぶんあみ子の社会的な状況に関連していると思いますが、私は全然考えていなかったのでこれは指摘されてハッとしました。語る会でも言及された方がいましたが、あみ子をケアする存在が誰もいない。その中で「大丈夫」という言葉を言わせることは果たしていいのか?という問いなのかなと思います。映画では全体的に明るいタッチであまり悲壮感はないが、小説の方が暗い印象で出口のなさみたいなものを感じたとも指摘されていて、言われてみればとその通りで納得しました。
小説の時のあのあみ子の息苦しさみたいなものは何だったのか?
そこが読めればもう少し何かをつかめそうな気がします。
私は小説を持っていたのですが現在行方不明で語る会までに再読できませんでした。
また再度入手して上のようなことを意識して再読したいと思った次第です。
あと映画自体の話とは少しズレますが、
語る会で、映画のパンフレットに掲載されていた写真のあみ子の顔がエレファントカシマシの宮本浩次さんに似てないか?と話題になってかなり盛り上がって楽しかったです。
それと語る会で参加者のお一人が、あみ子みたいだった子どもの頃の自分が大人に擬態できるようになって、今大人のこのような語る会に混じれて嬉しいと言いました。それに対して、ここにいるみんなも大人の擬態をしているのだという返しが出たのが、個人的にかなりツボでした。きっとみんな、かつてあみ子のようであり、たとえ今忘れてしまっていたとしてもその残滓を誰もが今も持っているのではないか?そんなことも想像したりしました。
さて、レポというより私の所感みたいな内容になってしまいましたが、映画『こちらあみ子』に関して話したことは以上のような感じでした。
改めて思うのは、一つの作品を人と話するのはとても楽しいということですね。
以前より解像度を上げて作品のことを考えるのが可能になったり、別の視点で改めて作品に臨むことができる。そんな面白さがあると思います。
ご参加いただいた方々や一緒におしゃべりをしてくださった方々に改めて感謝を述べたいと思います。
映画の上映は鹿児島はガーデンズシネマさんのみで、9/11(土)で終了しました。
何か機会があったらぜひご鑑賞ください。ただ個人的には原作を読んでからの方が楽しめるのではないかと思います。小説も強くお勧めしたいです。
当店では新刊本で『こちらあみ子』を扱っていましたが現在は在庫なしです。
また近いうちに仕入れますので、よかったらお手に取っていただけたら幸いです。
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